2013年6月29日土曜日

鹿児島ぶらりまち歩き~加治屋町編~

 今回は加治屋町周辺のまち歩きをしました。
 江戸末期から明治時代に活躍した偉人の誕生地碑などが集中し、狭い範囲でも深い歴史に触れることができます。


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 鹿児島中央駅改札前でボランティアガイドさんと合流し、まち歩きスタート。

若き薩摩の群像(鹿児島中央駅東口バスのりば


 写真の長沢鼎(ながさわ かなえ)は、13歳で渡英し、15歳でアメリカに渡り、『カリフォルニアの葡萄王』と呼ばれ、83歳で没した。
 長澤は生涯、独身を貫いたが、ニューヨーク州のブロクトンのコロニーで生活していた二十歳の頃、岩倉遣欧使節団の一員として、また日本初の女子留学生として米国に渡った山川捨松という才女とロマンスがささやかれたこともあった。長澤自身はこの噂を否定しているが、この捨松との恋が、独身を貫いた理由とも言われている。(インターネットに掲載されていた。)
 この山川捨松は会津の出身で、大山巌の後妻になるのだから、本当であれば興味深い。

樺山資紀邸宅跡(高見橋電停近く



 市電高見橋電停の程近く、交差点角にとある記念碑が設置されています。ビルの合間に息をひそめ、その大きさとは不釣り合いな存在感。周りの緑も手伝って絶妙な侘び寂び空間を演出しています。
 この碑は、幕末及び明治時代に大活躍した薩摩藩士の一人で、海軍大将にまで上り詰めた樺山資紀(かばやますけのり)の邸宅跡です。
 この人物、いわゆる薩摩の生んだ偉人であります。
 薩英戦争・戊辰戦争に従軍し、西南戦争では官軍として熊本城を死守、その後は警視総監・海軍大臣・海軍軍令部長、海軍大将・初代台湾総督・内務大臣・文部大臣とさまざまなキャリアを転々とし、軍政・国政両方で才気を遺憾なく発揮しております。
 また、太平洋戦争終戦後GHQと渡り合ったことで有名な白洲次郎の奥方・白洲正子のおじいちゃんという、歴史好き受けの良さそうな家系図ネタもきちんと押さえています。
 これだけの大人物でありながら、現代における影の薄さはなかなかのもので、その影の薄さが邸宅跡周辺の独特な空間形成に一役買っていることも否定できないところですが、この理不尽な現象は、逆説的に動乱の幕末・明治期に活躍した薩摩出身者の層の厚みを示すものであるともいえます。
 樺山資紀(かばやますけのり)です。立派な方ですよ。

大久保利通銅像(高見橋加治屋町側



 大久保利通像と「為政清明」の石碑。
 言わずと知れた幕末から明治の偉人。西郷隆盛と同じ下加治屋町で、郷中(ごじゅう)教育を受けて育つ。
 新政府では、版籍奉還・廃藩置県などを実施し、岩倉使節団にも加わるなど、新政府の施策に深く関わり活躍するが、晩年は、西南戦争で西郷と戦うこととなってしまう。
 そんな彼の座右の銘が「為政清明」=「政治をするものは清く明らかであるべきだ」というもの。
いつの時代でも通用する言葉だといえるだろう。
(参考文献:鹿児島市発行「もっと知ろうよ維新のまち」平成24年版)

 明治維新の指導者であった政治家、大久保 利通。西郷・木戸と並んで"維新の三傑"と称され、倒幕・維新に尽力した一人。
 "目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいてはならない。そういうものを振り切って前に進む。"という名言にも利通の人柄が表れていますね。

維新ふるさとの道(円形広場



 甲突川の高見橋、高麗橋間の川岸緑地は「維新ふるさとの道」として整備されています。
天文館と中央駅エリアの境目で往来する人は少なくないですが、是非とも一度は足を止めて見て欲しいところです。
 一番のお気に入りは円形広場。ペリーの航路や幕末の英国留学航路などが見事なスケールで(笑)描かれています。
 川畔の自然に囲まれながら、想像力が高ければ幕末世界旅行ができちゃいます。

黒木為楨誕生地(鹿児島市医師会前



 加治屋町にひっそりと佇む石碑。戊辰戦争から日露戦争まで五度にわたる戦場で活躍した猛将、黒木為楨の生誕地です。猪突猛進ながらも経験に裏打ちされた采配で戦果をあげ、日露戦争においてはクロキンスキーと恐れられました。
 その反面、豪快な性格(冗談半分で相撲を挑んだ明治天皇を投げ飛ばしたそうです…ワイルドですね!)と出世欲の無さから、功績に見合わず大将で軍歴を終えています。
 ちなみに石碑のすぐ横は月極駐車場と自販機。もう少し気前よく祀るべきじゃないかと思いますが、これも一つの人柄の表れでしょうか。刻まれた漢字の間違いも、きっと笑って許してくれるでしょう!

東郷平八郎誕生地(鹿児島中央高校



 東洋のネルソン=東郷平八郎の誕生地碑。
 元々は鹿児島中央高校内(写真より少し奥まった理科室辺り)にあり、現在は外周添いに移っています。
 東郷といえば、連合艦隊を率い、当時最強と言われていたロシアのバルチック艦隊に完全勝利、世界三大提督の一人と賞される人物。すごく遠い人、時代に思えますが、まだ100年ちょっと前のこと。感慨深いですね。

篠原國幹誕生地(鹿児島中央高校



 少年時代に和漢学を修め、ついで藩校の句読師となった 篠原国幹。また馬術・剣術・鎗術・弓術も極め、軍事演習を見た明治天皇がその指揮ぶりに感心し、「篠原に見習うように」と、その演習地を「習篠原」→「習志野」と名付けたほど。
 1877年3月4日、政府軍が薩軍を攻撃。篠原は陣頭に立って部隊を指揮したが、このときの赤裏の外套が目印となって政府軍の狙撃を受け戦死したと言われている。
 口数が少なく沈着冷静。かつ、豪傑で人並み外れたの度胸を備え 人望を集めた彼の生き様から、薩摩の士風を肌で感じることができます。

村田新八生誕地(鹿児島中央高校

















 
 中央高校外周1周の最後は村田新八生誕地です。
 明治政府の岩倉使節団に随行しながらも、帰国後は征韓論によって明治政府と溝を深めた西郷に従い 薩摩へ帰郷しました。
 西南戦争では西郷の自決を見届けた後も戦いを続け、壮絶な死を遂げたとのことです。 

大山巌生誕地(中央高校バス停近く

















  
 大日本帝国陸軍の中で活躍し元帥陸軍大将まで登りつめた大山巌。
 西南戦争をはじめ日清・日露戦争でも活躍し「陸の大山、海の東郷」といわれたそうです。
 後妻、捨松は会津藩の出身で、戊辰戦争において大山の砲兵部隊に激しい砲撃を受けた因縁の間柄。捨松の周囲は結婚に強く反対したものの、大山側の粘り強いアプローチで結婚にいたったそうです。
 二人は互いに語学堪能で夫婦同士の会話は英語だったとの逸話も残っています。

 西郷隆盛生誕地(維新ふるさと館近く



 幕末から明治維新、その後の日本の近代化のために活躍した多くの偉人が生まれ育ったのが、加治屋町周辺。
 西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人(けいてんあいじん)」。天を敬い、人を愛し続けるということ。武士たちの不満を一身に背負って戦い、西南戦争では命を絶つことになった男の生き様を感じさせる言葉ですね。
 『努力をすれば大久保利通に近づけるかもしれないが、西郷隆盛にはなれない。』それだけ、西郷さんは天才だったとのことです。
 “維新のふるさと”を歩きながら、今 も残る薩摩の英傑たちの息吹を感じました。

維新ふるさとの道(武家屋敷復元物



 それは甲突川横の公園の中に建っている。
 客人などを迎える為の「オモテ」と、日常生活の為の「ナカエ」という、二つの空間を繋いで構成された、二ツ家形式と呼ばれる鹿児島特有の下級武士住居。
 ここまで明確に、「公」と「私」の空間を分けるなんて事を、現代でやろうとすると、無駄だとか、フレキシビリティがないだとか、いろいろ言われるのだろうけど、そんな事はさておいて、生活の基盤となる住居においても、「公」と「私」を切り離してしまう、その自己を律する精神性が、きっと近代日本を形作った、あの明治維新の原動力となったのだろうと考えずにはいられない。
 そして、その厳格な精神性が生んだ住居形式の結果が、並列するトンガリ屋根という、どこか可愛らしい有り様となっているのが、人間らしくて愛おしい。


最後に
 まち歩きは2時間ほどで加治屋町を一周し、維新ふるさと館前でゴール。
 加治屋町は何気ない街角に数多くの碑が存在することに驚きます。しかし、鹿児島市の歴史に関係する場所には、碑が残っているだけの場合が多くもったいない気がします。
 誕生地碑の解説板には没年が記されていますが、1877年の西南戦争の年に没した方々とそうでない方々があり、同じ地に生まれながら戦争で命運を分けてしまった偉人たちの歴史を読み取ることができます。歴史に詳しくなって再び訪れたい場所です。