2014年5月24日土曜日

ぶらりまちあるき 泉町編

5月のまちあるきは、もはや定番となりつつある観光ボランティアガイドを利用して、天文館近隣に位置する泉町周辺を歩きます。
今回、私たちが巡るコースは、「薩摩ぼっけもんの関西三都物語」。
幕末から明治にかけて活躍した、商才あふれる偉人たちの足跡を辿ります。

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じめさあ(持明院)

以前のまちあるきでも訪れた、じめさあの石像前からスタート!

薩摩辞書の碑

 

こちらは、後に明治政府の農政官僚となる、前田正名(後述)らが出版した薩摩版英和辞書の碑です。
正式な名称は「和訳英辞林」といいます。
彼らの渡欧留学の費用を捻出するために出版されたものですが、英語に不慣れであった当時の人々には大変重宝されたようです。
それにしても、辞書についての石碑とは珍しいですね。

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鶴丸城跡にある、黎明館へ。


城門の跡地や西南戦争の弾痕を眺めながら歩きます。

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七高生久遠の像 


 黎明館敷地内にたむろする3人の像は、かつてこの場所にあった第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)の学生さんです。
名前の通り8番までしかないナンバースクールの1つであり、また、藩時代の学校の名(造士館)を冠する唯一の高等学校であった点から、当時の薩摩閥の権力と、薩摩に対する思いを垣間見ることができます。
大学全入時代と言われる今日とは異なり、当時の高等学校の学生さんはいわゆるエリートであり、地域の人々から敬意をこめて「七高さん」と呼ばれていたそうです。伊豆の踊子的な世界観ですね。
なお、石碑にある「北辰斜にさすところ」は鹿児島大学で歌い継がれている曲の一節です。大まかには、「北極星が低く斜めに見えるくらい七高が南にある」という意味だとか。かっこいいです。

天璋院 篤姫像


黎明館敷地内に、大河ドラマ「篤姫」放送後の平成22年に建立されました。除幕式には、島津家、徳川家、篤姫が養女となった京都近衛家の方々も出席されたそうです。
写真の「天璋院」の文字は、戊辰戦争の際に西郷隆盛らが率いる官軍へ宛てた、徳川家存続の嘆願の手紙に書かれた文字をもとに彫られています。
文字の筆勢から嘆願文に込められた強い思いを感じます。
鶴丸城内から何かを見据える視線の先には現在の鹿児島が見えているのだろうかと、少し身の引き締まるような、凛とした佇まいの銅像でした。

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ここから長田町方面へ。



薩摩義士の碑や西郷隆盛終焉の地を巡り、 五代友厚誕生地へ。


ここまでずいぶん歩きました。
ちょっとした山登りのようです。
五代友厚については、後ほど。

ここから来た道を戻り、長田中学校へ。

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琉球館跡

 
長田中学校の敷地内(グランドの辺り)に、かつて琉球館と称する琉球王国の出先機関が置かれていたそうです。校内にあるので、石碑の存在を知っている方はとても少ないのでは。
慶長14(1609)年、島津家第18代家久は琉球に兵を出し、琉球を薩摩藩の支配下に置きます。その後、琉球館(元は琉球仮屋)を毎年正月に琉球からやってくる使者の滞在場所とし、主に交易の連絡調整のために用いました。
そこでは琉球からの色々な産物を取り扱かい、藩に大きな利益をもたらしたそうで す。
ちなみに、大久保利通の父である大久保利世は琉球館附役を勤め、学識豊かな人だったといわれているそうです。

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ここからやっと、泉町方面へ向かいます。

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赤倉の跡

何度も歩いているのに全く気づかなかった。桜島桟橋通電停の近くの歩道には「赤倉の跡」と彫られた小さな石碑。
石碑の裏には、「ウイリアム ウイリスは明治2年(1869年)12月から8年間ここで多くの医学生を養成した。これが本県における西洋医学の始まりである。昭和38年3月鹿児島市教育委員会」と彫られています。
「赤倉」とは、英国人医師ウイリスのために建てた病院が、赤レンガ造りの洋館であったことからそう呼ばれていたそうです。
ウイリスは、治療のみならず妊産婦検診、温泉療法、健康・体力づくり、食糧・栄養問題や、上下水道完備の必要性の提言など予防医学・公衆衛生面でも大き く貢献しました。
また、医学教育では、石神良策、三田村一、高木兼寛(海軍軍医総監・慈恵会医科大学の創設者)、上村泉三、中山晋平(初代鹿児島県医師会長)ら300余名の有能な門下生を育てました。

 前田正名ゆかりの地


前田正名は鹿児島出身の明治時代の官僚であり農政家で、農業・在来産業を重視した殖産興業政策を推進した人物です。
19歳の時に前述の薩摩辞書を作成して販売し、留学資金を調達した苦学人だそうです。その辞書の販売価格は現在の価格で11万...とても高価な辞書ですね(笑)
山梨県知事に就任後は、山梨で葡萄や梨の栽培を定着させ、男性下着で有名なGUNZE(グンゼ)の創業者でもあるそうです。

一方で、前田は「失意の中でこの世を去ることとなった」と、歴史家で作家の加来耕三はエッセイで述べています。政治的に、彼は不遇の人でした。
殖産興業の調査、立案に力をつくすものの、財政再建方針をめぐって松方正義と対立、山梨県知事に左遷されます。このとき、前田は地方産業の振興、松方は紙幣整理と増税(=中央集権)を主張し、政界を二分する争いとなりました。
8か月後、前田は中央に戻り、地方振興に再び取り組みますが、今度は陸奥宗光との対立で実権を奪われます。それでも前田は農工商諸団体の組織化を説いて全国をまわり、茶業会、大日本農会、日本蚕糸会など最大11団体の会頭、監督に就任するなど、私的にできることは精力的にこなしたそうです。
加来は前田を「日本が帝国主義、中央主導の産業振興を強めていく中にあって、政府に対する一大敵国のような」存在であり、彼の死を「日本はもしかすれば可能であったかもしれない、地方重視・主導の殖産興業の方法論を、このとき完全に失ってしまった」と評しています。


加来の解釈の妥当性はさておき、ともすれば、近代日本の基礎を築くうえで中心的役割を果たしたと括ってしまいがちな薩摩藩士に対する私の認識の単純さを今回は思い知りました。
苦境や挫折、初志貫徹のような人間ドラマがみえて面白いし、明治の政策形成史(←たぶん、地方分権へ改めねばならないとされる現行制度の基礎は、このときできたものだと思う)に対する関心も出てきました。
今回、かなりマニアックなコースということでしたが、そのマニアックさに見合うだけの収穫を得られた気がします。

写真の碑は前田正名生誕地にあたる鹿児島市小川町(ホームセンターニシムタの目の前)にあります。

《文献》加来耕三、2014、「薩摩のイノベーター 第35回 もう一つの近代日本、殖産興業の可能性を握っていた前田正名」渕上印刷 リージョン編集部編『鹿児島ブランディング情報誌[リージョン]』35号(2014年春号)、26-29ページ。

五代友厚像

天文館から朝日通りを海沿いへ歩くと、右手に小さな公園が見えてきます。その公園内に立つのが、近代大阪経済の礎を築いた「五代友厚」の銅像です。
多くの英傑と共に倒幕を成し遂げた彼は、新政府においても外交官をはじめとする重役に登用されますが、早々と下野し、大阪の地で実業家としての道を歩みます。
しかし、当時の大阪は維新変動の煽りを受け、商都としての活気を失っていました。 
そこで彼は、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設置し、商工業の再興に努めます。
その功績から「大阪の恩人」とまで称された五代ですが、時代と共にその名は忘れ去られつつあります。
一方で、その生涯を後世へ伝えるため、映画化の話もあるようです。
これを機に、彼の名が再び日の目を見ることを楽しみにしていたいと思います。

石灯籠

街の中心にある「いづろ通」や「いづろ交差点」。この「いづろ」の由来は交差点にある石灯籠(いしどうろう)が訛って「いづろ」と呼ばれるようになったそうです。
この石灯籠は南林寺の参道に並んでいたものという説と、屋久島へ通う船の標識として波止場に置いてあったものという2つの説があるそうです。
今度交差点を通るときはこの石灯籠を探してみてはいかがでしょう。ちなみに1個ではありませんよ。

川崎正蔵翁誕生地 

川崎重工業の前身、川崎造船所の創始者である川崎正蔵の誕生地。
彼は早くから西洋型船を使った貿易に目をつけ、幕末期には畿内への物産品輸出により、薩摩藩に莫大な利益をもたらします。また、明治に入ってからは東京~琉球間の輸送航路を開設、琉球砂糖の輸入により、自身も巨利を博すことになります。
その後、同じく鹿児島出身である松方正義らの援助を受け、隅田川沿いの官有地に念願の造船所を開設します。これが川崎重工業の起源となり、現在まで脈々と続く、日本の重工業発展の礎となりました。
まさに船と共に生きた人生ですね。

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今回のまちあるきはここまで。
薩摩の偉人といえば、維新三傑の西郷や大久保をはじめとする、政に関わる人物が知られていますが、商の分野においても、新時代を切り開き、日本の近代化に大きく寄与した人々がいることを学びました。
まだまだ、掘り下げがいのある分野といえそうです。

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