2014年10月15日水曜日

せごどんのえんこ(西郷どんの遠行)

鹿児島市では毎年9月23日秋分の日に、郷土の偉人・西郷隆盛のゆかりの地を巡る
「せごどんのえんこ(西郷どんの遠行)」が開催されます。
9月のまちあるきでは、この「せごどんのえんこ」に参加してきました。

毎年この時期に開催されるのには、ちゃんとした理由があります。
翌日9月24日が西郷隆盛の命日なのです!
「秋分の日が毎年祝日だから」「ハイキングにちょうど良い気候だから」なんていう
俗な事情によるものだけではないのですよ。

命日を前に西郷のゆかりの地を巡ることにより、
大人はその生き様に思いをはせるとともに、郷土への誇りを思い起こし、
子どもたちは幕末の薩摩の歴史を学び、郷土愛が次代へと受け継がれていきます・・・
こう考えると、大変意義深いイベントとなっています。

とはいえ、けして敷居の高いものではありません!

予約不要で参加料不要!!
スタート時間にスタート地点に赴き、受付で登録さえすれば、誰でも参加できますよ!

それでは、いろは会メンバーの巡礼の跡を辿りましょう!
  
スタート地点:武西郷屋敷跡

スタート地点は2つから選べました。
1つは武町の「武西郷屋敷跡」、もう1つは加治屋町の「西郷隆盛誕生地」です。
我々は「武西郷屋敷跡」からスタートしましたが、なかなかの雰囲気です。






「武西郷屋敷跡」は、西郷隆盛の御屋敷の跡地で、現在は公園になっています。
西郷隆盛と菅実秀が座って向かい合う像が目印です。


この菅実秀、現在の山形県である庄内藩の家老でした。
戊辰戦争では薩摩藩士ら官軍と激しく戦った藩の1つだそうです。結果、庄内藩は官軍に敗れるのですが、その際に薩摩藩士らとった敗戦者に対する寛大な措置・誠実な対応に敬服し、後年西郷隆盛と徳の交わりを結んだとのことです。
現在、鹿児島市と鶴岡市は姉妹都市の盟約を結んでいますが、2人の交流ががそのきっかけともいわれています。

なお、「せごどんのえんこ」は、スタンプラリー方式になっています。下の画像が、今年の台紙でした。


スタート地点を除いて6つの地点でスタンプをもらうことになるのですが、1つ目のポイントである<座禅石>が、なかなかに遠いです。
甲突川沿いをひたすら黙々と歩きます。

ポイント①:座禅石

<座禅石>は国道3号線から護国神社に向けて入り、小坂をのぼったところにあります。
しかし、その前に、護国神社の広い境内でひとやすみです。



下の写真が「座禅石」です。ただの石に見えますが、そうではありません。
この座禅石、若き日の西郷が無参禅師に禅の道を学ぶため、毎朝通い、その上で座禅を組んでいたという、まことありがたい石なのです。



座禅石前では、参加者の小学生に、地元のおじさまが熱く語っていました。
説明に熱が入りすぎている感は否めませんが、こういった地域やその歴史を愛し、
後進に伝えていくことに積極的な方が多くいらっしゃることは、実にすばらしいことです。

一般論になりますが、地元の人の説明は、どうしたって地元の偉人びいきになりがちで、
そこがまたおもしろくもありますよね。
各所で聞こえてくる説明のなかで、『西郷が主張したのは「征韓論」でなく「遣韓論」であった』という点が強調されている気がしました。
 
ポイント②:夏蔭城跡

2つ目のポイントは<夏蔭城跡>です。
あまり名前を聞かない夏蔭城ですが、それもそのはず、
現在は宅地開発のため「跡」の碑しか残っておりません。


夏蔭城は西南戦争末期の城山攻防における要害であったとのこと。なるほど、眺めがよろしゅうございます。
  

このポイントで、ぐっと西郷の死が近づいた感があります。
行進を続ける我々にも、体力の消耗具合も手伝ってか、ほのかに悲壮感漂ってまいりました。


ポイント③:城山本営跡
3つ目のポイントである<城山本営跡>は、鹿児島でも有数の観光地である城山展望台の程近くです。


「本営跡」とは、国内最後の内戦ともいわれる西南戦争の城山籠城の際のものです。
西郷は西南戦争にて、熊本城攻略に失敗したあと、各地で連戦のうえ、官軍の包囲網を突破し鹿児島は城山に帰り、最後の籠城戦の支度をしました。
時にして明治10年9月1日、籠城した薩軍は370人ほどだったそうです。
 
ポイント④:南洲翁洞窟

展望台から市街地方向に坂を下っていくと、4つ目のポイント<南洲翁洞窟>に至ります。


城山籠城戦の折、西郷はこの洞窟で寝起きしたとのこと。
城山陥落前夜となる9月23日の夜には、6万の官軍に包囲されつつも、最後の宴が華やかに催されたようです。

また、そのような状況下でも、西郷は平然と碁を打っていたという肝っ玉伝説があります。
その様子をかたどった像もあるのですが、これはあくまで伝説であり、史実ではないようです。

ポイント⑤:岩崎谷終焉地

道なりに進むと、5つ目のポイント<岩崎谷終焉地>に到達します。


その名の通り、力尽きた西郷が、部下の別府新八に介錯を命じ、その一生を終えた地です。
西郷の人生を追い、強行軍を展開してきた我々にも、「ついにこの段階に至ってしまったか」と、
妙な感慨がありました。
ゴール地点までの道中、地域の商店街「上町南風通り会」による麦茶の差し入れがありました。


良い意味で、地域で作り上げているイベントらしさがにじみ出ております。
ここまできたらゴールまであと少し!
ポイント⑥:南洲神社・西郷墓地

最後のポイントは、<南洲神社・南洲墓地>ということで、西郷のお墓参りで遠行をフィニッシュすることになります。
お彼岸ですし、その点においても良い開催日時設定であります。


この墓地には西郷や村田新八をはじめとする、西南戦争での薩軍戦死者等9000人が弔われています。
合同墓もあり、墓石自体は755基あるとのこと。ここまで並ぶと、なかなか壮観です。


示現流の稽古を体験する子どもたちの声に耳を傾けながら、西郷のお墓に手を合わせ、今後とも鹿児島を見守ってくださるようお願いし、長い道のりの結びとしました。

☆総括

今回参加した「せごどんのえんこ」は、西郷の人生を追想しながら、秋の行楽としてベターな距離・コースのハイクを楽しめるイベントであり、とりわけ鹿児島人であれば、一度は参加してみる意義のあるものだといえるでしょう!
 
「遠行要素が濃すぎて、歴史要素が物足りない!」という方は、ゴール地点の<南洲神社・南洲墓地>敷地内にある「南洲顕彰館」にて展示物を堪能してもよいですし、加治屋町の「ふるさと考古歴史館」に足を延ばしてみてもよいかと思います!

なお、今年はスタンプラリーを制覇したシートを南洲顕彰館にて提示すると、豪華記念品を賜ることが出来ました!
豪華記念品とは何であったか…、それは参加してのお楽しみということに!!

最後に<南洲翁洞窟>付近で撮影した集合写真を掲載し、締めさせていただきます!
(シャッターをきってくれたお姉さま方、ありがとうございました!)






 

2014年7月26日土曜日

ぶらりまちあるき 薩摩こんしぇるじゅ。編

7月のまちあるきは、薩摩こんしぇるじゅ。のガイドで天文館地区を歩きます。
この薩摩こんしぇるじゅ。とは、鹿児島の歴史やおもてなし等を学び、認定を受けた鹿児島美人さん(おごじょ)によるガイドツアーです。
昼と夜の二つのコースが用意されており、昼は歴史をしっかりと、夜はお酒や食事を楽しみながら、鹿児島のまちを知ることができるそうです。

今回、私たちが参加したのは夜コース。
せっかくなので飲み食いもしたいと、時間帯は昼でしたが、特別にコース内容を夜仕様に変えてもらいました。

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出発はマルヤガーデンズ前から。


ネームに名前を書いてもらい、スタートです!

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ツアーに参加して、最初に目につくのがガイドさんの衣装。 
こんしぇるじゅ。の皆さんの服装は、日本伝統の和装をイメージしたものだそうです。


袴のようなパンツに、足元は地下足袋。よく見ると手元は手甲(手の甲を覆う防具)のような形になっています。胸元には島津家の家紋をワッペンであしらい、遊び心満点。
また、女性らしいカラフルな色使いや、程よくゆるふわなシルエットは可愛さも満点です!
この衣装だけでも一見の価値あり、ですよ。

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坂本龍馬とおりょうの碑



かの寺田屋事件の後、坂本龍馬は妻のおりょうを連れて鹿児島を訪れました。
旅の目的は傷の療養でしたが、これが日本における新婚旅行の始まりとされています。
ちょうど昔の海岸線がこの辺りですから、船から降り立った二人も、この周辺を散策したかもしれませんね。


龍馬の手元には小さな箱が…。
一体何が入っているのでしょう?

ここで記念写真をパチリ!



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納屋通り


天文館のアーケード街の通りの一つで、昼夜問わず買い物を楽しむ多くの人が行き交います。
ここは島津家久によって塩や魚の専売が認められた者が店を構え、古くから商いが盛んな場所だったそうです。
随分と新しいお店も増えましたが、今も昔ながらの商店が残り、その名残を感じることができます。

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一行は照国通り、御着屋交番前へ。


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御着屋交番


今では別な漢字が充てられていますが、古くは「御舂屋」と書かれたこの場所。
とある理由から、この地名が付けられました。


答えはツアーに参加してのお楽しみ!

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ぴらもーる


天文館の中でも比較的大きな通りの一つ。
三角形のアーケードに上を覆われていますが、これが通り名称の由来となっているそうです。

こちらの答えも、ツアーに参加してのお楽しみ!


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少し歩き疲れたので、ここでおやつ休憩。
ガイドさんオススメのジェラートをいただきます。


イチオシはさんご塩味。
まちあるきをしながら、グルメになれるのも薩摩こんしぇるじゅ。の一つの魅力ですね。


とても美味しゅうございました!ごちそうさま。

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小腹を満たしたところで、まちあるき再開。



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天文館跡


鹿児島随一の繁華街である天文館。地元では、「天街(てんまち)」と略称されます。
ここに島津家の命により天文観測所が設けられたことが、名前の由来となっています。
当時の観測技術は相当なもので、薩摩藩独自で正確な暦を作り、日食(その欠け方まで!)を予測するほどだったそう。

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途中で神社に寄り道。


頭が良くなるよう、お祈りするメンバーも。



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いちにぃさん


鹿児島といえば黒豚。そして、黒豚といえばしゃぶしゃぶ!
ぴらもーるには、首都圏などにも展開している黒豚しゃぶしゃぶのお店「いちにぃさん」の本店があります。
ちなみに、店舗前の椅子はAKB48のゆきりんが訪れた際に座ったそうです。
熱心なファンの一人が、ご満悦の様子で記念撮影。

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虹家


まちあるきの最後の立ち寄りスポットは、居酒屋虹家さんでのちょい飲み。
おつまみも付いてきます。今回は煮込み料理の小皿。


提供された冷たい焼酎の美味しさはもちろんのこと、お料理が本当に美味しい!
お肉の旨味とあえたソースの甘辛さが絶妙にマッチしていて、いくらでも焼酎が飲めてしまいそう。
上に載せられたネギのシャキシャキと、柔らかなお肉の食感の違いがさらに食欲を引立てます!


ちなみに、このお店では鹿児島のご当地アイドル、「セブンカラーズ」のステージが楽しめるそうです。
詳しくはこちら→https://www.facebook.com/777sevencolors

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今回のツアーはこれにて終了。

 

美人ガイドさんに惹かれて参加しましたが、歴史やグルメ、まちに関するちょっとした豆知識などを学ぶことができ、とても満足度の高いまちあるきとなりました。
ボランティアガイドとは一味違う楽しさがあります。

ご紹介したのはまちあるきの行程のごく一部ですので、興味のある方は是非参加してみることをオススメします。

最後に記念写真をもう一枚。


こんしぇるじゅ。の皆様、ありがとうございました!

薩摩こんしぇるじゅ。公式HPはこちら

いろは会のFacebookページはこちら

2014年5月24日土曜日

ぶらりまちあるき 泉町編

5月のまちあるきは、もはや定番となりつつある観光ボランティアガイドを利用して、天文館近隣に位置する泉町周辺を歩きます。
今回、私たちが巡るコースは、「薩摩ぼっけもんの関西三都物語」。
幕末から明治にかけて活躍した、商才あふれる偉人たちの足跡を辿ります。

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じめさあ(持明院)

以前のまちあるきでも訪れた、じめさあの石像前からスタート!

薩摩辞書の碑

 

こちらは、後に明治政府の農政官僚となる、前田正名(後述)らが出版した薩摩版英和辞書の碑です。
正式な名称は「和訳英辞林」といいます。
彼らの渡欧留学の費用を捻出するために出版されたものですが、英語に不慣れであった当時の人々には大変重宝されたようです。
それにしても、辞書についての石碑とは珍しいですね。

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鶴丸城跡にある、黎明館へ。


城門の跡地や西南戦争の弾痕を眺めながら歩きます。

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七高生久遠の像 


 黎明館敷地内にたむろする3人の像は、かつてこの場所にあった第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)の学生さんです。
名前の通り8番までしかないナンバースクールの1つであり、また、藩時代の学校の名(造士館)を冠する唯一の高等学校であった点から、当時の薩摩閥の権力と、薩摩に対する思いを垣間見ることができます。
大学全入時代と言われる今日とは異なり、当時の高等学校の学生さんはいわゆるエリートであり、地域の人々から敬意をこめて「七高さん」と呼ばれていたそうです。伊豆の踊子的な世界観ですね。
なお、石碑にある「北辰斜にさすところ」は鹿児島大学で歌い継がれている曲の一節です。大まかには、「北極星が低く斜めに見えるくらい七高が南にある」という意味だとか。かっこいいです。

天璋院 篤姫像


黎明館敷地内に、大河ドラマ「篤姫」放送後の平成22年に建立されました。除幕式には、島津家、徳川家、篤姫が養女となった京都近衛家の方々も出席されたそうです。
写真の「天璋院」の文字は、戊辰戦争の際に西郷隆盛らが率いる官軍へ宛てた、徳川家存続の嘆願の手紙に書かれた文字をもとに彫られています。
文字の筆勢から嘆願文に込められた強い思いを感じます。
鶴丸城内から何かを見据える視線の先には現在の鹿児島が見えているのだろうかと、少し身の引き締まるような、凛とした佇まいの銅像でした。

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ここから長田町方面へ。



薩摩義士の碑や西郷隆盛終焉の地を巡り、 五代友厚誕生地へ。


ここまでずいぶん歩きました。
ちょっとした山登りのようです。
五代友厚については、後ほど。

ここから来た道を戻り、長田中学校へ。

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琉球館跡

 
長田中学校の敷地内(グランドの辺り)に、かつて琉球館と称する琉球王国の出先機関が置かれていたそうです。校内にあるので、石碑の存在を知っている方はとても少ないのでは。
慶長14(1609)年、島津家第18代家久は琉球に兵を出し、琉球を薩摩藩の支配下に置きます。その後、琉球館(元は琉球仮屋)を毎年正月に琉球からやってくる使者の滞在場所とし、主に交易の連絡調整のために用いました。
そこでは琉球からの色々な産物を取り扱かい、藩に大きな利益をもたらしたそうで す。
ちなみに、大久保利通の父である大久保利世は琉球館附役を勤め、学識豊かな人だったといわれているそうです。

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ここからやっと、泉町方面へ向かいます。

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赤倉の跡

何度も歩いているのに全く気づかなかった。桜島桟橋通電停の近くの歩道には「赤倉の跡」と彫られた小さな石碑。
石碑の裏には、「ウイリアム ウイリスは明治2年(1869年)12月から8年間ここで多くの医学生を養成した。これが本県における西洋医学の始まりである。昭和38年3月鹿児島市教育委員会」と彫られています。
「赤倉」とは、英国人医師ウイリスのために建てた病院が、赤レンガ造りの洋館であったことからそう呼ばれていたそうです。
ウイリスは、治療のみならず妊産婦検診、温泉療法、健康・体力づくり、食糧・栄養問題や、上下水道完備の必要性の提言など予防医学・公衆衛生面でも大き く貢献しました。
また、医学教育では、石神良策、三田村一、高木兼寛(海軍軍医総監・慈恵会医科大学の創設者)、上村泉三、中山晋平(初代鹿児島県医師会長)ら300余名の有能な門下生を育てました。

 前田正名ゆかりの地


前田正名は鹿児島出身の明治時代の官僚であり農政家で、農業・在来産業を重視した殖産興業政策を推進した人物です。
19歳の時に前述の薩摩辞書を作成して販売し、留学資金を調達した苦学人だそうです。その辞書の販売価格は現在の価格で11万...とても高価な辞書ですね(笑)
山梨県知事に就任後は、山梨で葡萄や梨の栽培を定着させ、男性下着で有名なGUNZE(グンゼ)の創業者でもあるそうです。

一方で、前田は「失意の中でこの世を去ることとなった」と、歴史家で作家の加来耕三はエッセイで述べています。政治的に、彼は不遇の人でした。
殖産興業の調査、立案に力をつくすものの、財政再建方針をめぐって松方正義と対立、山梨県知事に左遷されます。このとき、前田は地方産業の振興、松方は紙幣整理と増税(=中央集権)を主張し、政界を二分する争いとなりました。
8か月後、前田は中央に戻り、地方振興に再び取り組みますが、今度は陸奥宗光との対立で実権を奪われます。それでも前田は農工商諸団体の組織化を説いて全国をまわり、茶業会、大日本農会、日本蚕糸会など最大11団体の会頭、監督に就任するなど、私的にできることは精力的にこなしたそうです。
加来は前田を「日本が帝国主義、中央主導の産業振興を強めていく中にあって、政府に対する一大敵国のような」存在であり、彼の死を「日本はもしかすれば可能であったかもしれない、地方重視・主導の殖産興業の方法論を、このとき完全に失ってしまった」と評しています。


加来の解釈の妥当性はさておき、ともすれば、近代日本の基礎を築くうえで中心的役割を果たしたと括ってしまいがちな薩摩藩士に対する私の認識の単純さを今回は思い知りました。
苦境や挫折、初志貫徹のような人間ドラマがみえて面白いし、明治の政策形成史(←たぶん、地方分権へ改めねばならないとされる現行制度の基礎は、このときできたものだと思う)に対する関心も出てきました。
今回、かなりマニアックなコースということでしたが、そのマニアックさに見合うだけの収穫を得られた気がします。

写真の碑は前田正名生誕地にあたる鹿児島市小川町(ホームセンターニシムタの目の前)にあります。

《文献》加来耕三、2014、「薩摩のイノベーター 第35回 もう一つの近代日本、殖産興業の可能性を握っていた前田正名」渕上印刷 リージョン編集部編『鹿児島ブランディング情報誌[リージョン]』35号(2014年春号)、26-29ページ。

五代友厚像

天文館から朝日通りを海沿いへ歩くと、右手に小さな公園が見えてきます。その公園内に立つのが、近代大阪経済の礎を築いた「五代友厚」の銅像です。
多くの英傑と共に倒幕を成し遂げた彼は、新政府においても外交官をはじめとする重役に登用されますが、早々と下野し、大阪の地で実業家としての道を歩みます。
しかし、当時の大阪は維新変動の煽りを受け、商都としての活気を失っていました。 
そこで彼は、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設置し、商工業の再興に努めます。
その功績から「大阪の恩人」とまで称された五代ですが、時代と共にその名は忘れ去られつつあります。
一方で、その生涯を後世へ伝えるため、映画化の話もあるようです。
これを機に、彼の名が再び日の目を見ることを楽しみにしていたいと思います。

石灯籠

街の中心にある「いづろ通」や「いづろ交差点」。この「いづろ」の由来は交差点にある石灯籠(いしどうろう)が訛って「いづろ」と呼ばれるようになったそうです。
この石灯籠は南林寺の参道に並んでいたものという説と、屋久島へ通う船の標識として波止場に置いてあったものという2つの説があるそうです。
今度交差点を通るときはこの石灯籠を探してみてはいかがでしょう。ちなみに1個ではありませんよ。

川崎正蔵翁誕生地 

川崎重工業の前身、川崎造船所の創始者である川崎正蔵の誕生地。
彼は早くから西洋型船を使った貿易に目をつけ、幕末期には畿内への物産品輸出により、薩摩藩に莫大な利益をもたらします。また、明治に入ってからは東京~琉球間の輸送航路を開設、琉球砂糖の輸入により、自身も巨利を博すことになります。
その後、同じく鹿児島出身である松方正義らの援助を受け、隅田川沿いの官有地に念願の造船所を開設します。これが川崎重工業の起源となり、現在まで脈々と続く、日本の重工業発展の礎となりました。
まさに船と共に生きた人生ですね。

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今回のまちあるきはここまで。
薩摩の偉人といえば、維新三傑の西郷や大久保をはじめとする、政に関わる人物が知られていますが、商の分野においても、新時代を切り開き、日本の近代化に大きく寄与した人々がいることを学びました。
まだまだ、掘り下げがいのある分野といえそうです。

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